サトル [99.11.1_4:45]
先日、都立大で開催された講演会に行ってきました。 講演者は、山口昌男、松岡正剛、中沢新一(敬称略)の3人で、 20世紀を締めくくるにふさわしい顔触れでした。 テーマ自体も21世紀に向けて、ということでしたし。 と、書きつつ、素晴らしい講演に感激しつつも、3人の方については、 著書を数冊読んだだけで、実はあまり知らないのです。 以前から関心は寄せているものの。 現在は、組織に入ってデザインの仕事をしていないのですが、 私はデザインの仕事をしていきたいと考えていて、 講演はデザインを志す私にとっても、とても有意義なものでした。 印象に残った講演の内容は、中沢氏が、 「日本の低迷状態は後、この先10年は続く。」 と、いうようなことを言われていたことです。 私の個人的な感じ方かとも思いますが、デザインに関しても低迷状態であると感じています。 単純に不況のせいだけだとは思っていません。 ある種の飽和状態になっていると感じているのですが、これはやはり自分自身の問題なのでしょうか。(信じていいのか疑問ですが。)一応、ご報告まで。次の本造りの予定は、詩人である友人(プロではありません。)の詩の本を作ることです。この本にとりかかる前に、今からタイポグラフィの勉強をして、友人に満足してもらえる本を作りたいと思っています。 (このチャットを覗いてはいるのですが、現状はついていけていないので、これから頑張って追いつきたいと思います。) 最後に質問ですが、デザインの仕事を希望するなら、 やはり東京に在住するというのが一番なのでしょうか?

koizumi [99.11.1_11:08]
サトルさん、一般的な御意見ありがとう。 ぼくは小さな人間ですから、大先生方の御意見に対しては何もコメントすることはありませんが、中沢氏のこのことばの意味は正しいと感じます。 それはボタン世代到来にも関係があると思います。便利すぎること、都合のよい合理的な処理が重要なプロセスを怠ってしまうこと(『デザ現1999/4のワインガルトの覚書き』にもある)。これに気付いたとき低迷から脱せるのでは? ちょうどお名前が出てタイミングがいいので→松岡氏が定義された「ハイパー・タイポグラフィ」とぼくのとは違うものです。ぼくにとって、単にコンピュータでいじったタイポグラフィはデジタル・タイポグラフィ(コンピュータ・タイポグラフィ)であって、ぼくにとっての「ハイパー・タイポグラフィ」は相互的なものです。つまりインターネット上であらゆる変貌を可能にする参加型タイポグラフィなのです。そう、1997年からみなさんがやっているものです。中でもぼくのは教育プログラムなのです。とうとうスイスでこれが認められ、インターナショナル・ヴァージョンが近々できます。話が横道にそれてしまってすみません。ジャケットの作品拝見しました。ぼくも機会があったら「時と人」拝見したいですね。デザイン=東京ではないと思います。ぼくは故郷に帰ってきただけです。


2038 [99.11.2_2:35]
はじめまして。2038といいます。私は例のその低迷しているデザインにおぼれている人間かもしれません。でもそんな実感がないままデザイン関係の仕事に就いており、さらにこのチャットにも顔を出してしまいました。さて、そんな自分が今興味を持っているのが、音とtypographyの関係です。最近小泉さんの連載を読み返し、改めて共感しました。共鳴いたしました。連載第一回、基礎の段階で音楽を引き合いに出し(もちろんわかりやすく)、それに太鼓という、いわゆる音程のない楽器からの要素としての空間構成は、まさしくこれがカウンタースペースなんだぁという気がしました。特に私はJazzにそれを顕著に感じます。譜面が読めないのが幸いしてか、Jazzのスネアとバスドラのタイミングはカウンタースペースそのものの気がします。それに音楽は印刷物よりもインターネットよりもチャットよりもアクションを起こす瞬間がわかりやすく、ひとつの音を出したときの瞬間とその前後の関係がまさしくカウンタースペース。typographic作品が多いJazzのレコードジャケットも何かこれと関係があるのではないでしょうか。あまり知りませんが、今はMotion Graphicsがたくさんあり、クラブシーンでもそういったインスタレーションで音楽と密につながっているようですが、(まったくもって私見ですが)なんとなくtypographyほど同時発信性を感じません。別に同時発信しなくてもかまわないですし、それぞれコンセプトもありますから、全然深い考察ではありません。とりあえず自分の興味あるところから意見してみました。みなさんはどのようにお考えですか。

koizumi [99.11.3_11:12]
こういった話題だとたくさんの方達がチャットしてくれるのでは?音楽はタイポグラフィと同様人間が生み出した偉大なもの。ぼくも楽譜についてはドレミが解釈できる程度。レヴェルは幼少の頃のヤマハの音楽教室ですから、なんとおはずかしい。。。でもタイポグラフィとの関係はものすごくあるので今からがんばろうと思ってます(楽器はやりませんが、いい音楽は聞きまくっています)。いま「タイポグラフィの読み方」book version製作中で、いろいろ探っています。大学院の授業でも一曲の流れのダイアグラムを作ったり、ジョン・ケージについてやったり幅広くファウンデーションを行ってます。曲の流れとエレメントはジャズもおもしろそうですが、ぼくはやっぱりボサ・ノヴァ。。。それとベートーベンはやっぱり偉大、ヴァイオリン・ソナタですね。これらをタイポグラフィと結び付けていくキーを見つけることがたのしいね。BlueNoteのジャケットはそんな深いベースから生まれたものと信じている。いかがでしょうか?

brock's [99.11.3_14:03]
ボタン世代のことが出てましたが、先日新聞の記事に マウスのクリック一つで仕事(経済)が左右される時代になっているとある経営者のインタビューが掲載されてました。(うろ覚えですが)デザイン行為のスタートは私も版下修行からですので、パソコンの画面の中で、何でも出来てしまう便利さに慣れてしまうことの怖さを感じることが確かにあります。ここで、お題を。インフォメーションデザインの分野において、タイポグラフィの果たす役割は非常に大きな役割であると認識しています。日本語の漢字とひらがな、そしてカタカナ。アルファベットのキャラクターの存在。何故か日常に当たり前にある欧文のカタカナ表記。この、複雑怪奇な言語表現が存在する世界で、我々日本人の生活の中での情報環境の整理や、違う母国語を持つ人々に対しても当たり前に必要な情報が、正確に伝わるようなインフォメーションの精査が、デザインの分野でも必要と考えています。公共のサインに対して我々ができることは何なのか。。。どうもハードに近い部分から物事が決められていて、本質的な見方や、進化・変化に対応してゆく視点が欠けているような気がしてなりません。文字はその国の「知の部分」であるというお話を聞いたことがあります。 確かに、便利になって行く環境の中で忘れてはいけないことと、肝に銘じております。 ちなみに、私の住む街では地下鉄の乗降扉に何故か、指を挟んで泣いているクマのシールが大きく貼られています(指を挟まないようにとの注意の意味?)クマは地下鉄に乗るのか?(素朴な疑問)人によっては、あれは鼻水ではなかったのかという認識を持っていた方もいました。(事実)実際にこれだけ自動ドアが普及していていったい何人の人間が指をはさんだのか?(不明)それでも、指をはさむのは個人の責任の問題ではないのか?(個人的見解です)身の回りには、見直さなければならないことが沢山あることを、「デザインの現場(貴誌名拝借) 」にいる人間は感じなければと、思ってる今日この頃です。。。失礼いたしました。

koizumi [99.11.5_19:59]
ボタン世代。。。考え方ふたつあります。答えはかんたん。それにフォローするか、しないか。今ぼくは16人の卒研生、4人の院生をみていますが対話している瞬間瞬間に、それを判断しています。 教育ってむずかしいんですよ。日本語が複合的なのは連載で再三提示しているとおもいますが、合理主義に走るか、情緒的表現に走るか、「その表現の重要なポイントをいかにおさえるか」タイポグラファーが判断することではないでしょうか?これは日本人の永遠の課題でしょう。常にどっちかに片寄ってはどこかで問題が起きます。インフォメーション・デザインに限って言えば、現在良い方向だとぼくは思いますが。。。あまり複雑に考えない方が良い場合もあります。だだ、これからはナビゲーションがより重要な時代となると思います。そういえば、自動ドアに指つめちゃうの?むかし大阪の環状線の電車で見てすごい衝撃でした。デザインの現場では毎日毎日が勝負です。妥協しないで、自分の信じるところを追求してがんばってください。

サトル [99.11.13_0:04]
「デザイン=東京ではないと思います。 」 というご返答、ありがとうございました。改めて、やはり肝心なのは、自分自身の『物事の捉えた方』だと思うようになりました。


34 渡辺聡哉 [2000.9.22_19:56]
最近では、デザインに対する世の中の考え方も大きく変わってきているようです。ようやくDTPの環境に慣れてきたとおもったら、今度はIT 革命でHPの作成もしなければなりません。HTMLの言語で成立しているこの世界は、ほとんどプログラムでできており、今までのやり方では通用しません。これからのデザイン世界で必要なものは、より速いスピードによる情報伝達と、データーベースでしょう。私も先生がだされる本は楽しみにしていますが、ちょっと時代遅れではないでしょうか?本当の意味でデザインの本質を追究し、その精神を時代の中で育むのであれば、真の意味での教育革命が必要と思われます。もう、横尾忠則や粟津清、杉浦康平のような天才達は出現しないでしょう。まさに、デザインにとって(特にグラフィック)暗黒時代の到来というわけです。

35 koizumi [2000.9.22_21:48]
ぼくにとってDTP、HP、IT、データベース処理、デザイン、タイポグラフィ、(すべて同じレヴェルでありませんが)、その他いろいろなものの根源にあるものは同じだと思っています。ひとつのことに満足できない人はどれひとつとってもダメでしょう。ただタイポグラフィは現在多岐にわたっていて、判断も様々です。ぼくの本はその中のひとつの意見と考えてください。つまり、時代遅れという考え方がすでに古いと思います。おっしゃるとおり、本質の追究ウンヌンです。ただし天才たちのというところは同意しかねます。天才たちが食い残した点があると思います。つまり、これからの人たちのために。

63 渡辺聡哉 [2000.11.20_12:49]
以前、指摘された事として現在のデジタル環境どれ一つとっても満足できない人はダメだといわれましたが、残念ながら私はどれ一つにも満足できません。だいたい、将来的にパソコンでデザインするなんて思ってもいませんでした。ただただ今はつらい時期を耐えるだけです。天才の事ですが、天才達が食い残したものではなく、次にくる天才とは、今の世の中とまったく別な次元で出現しそうです。

65 koizumi [2000.11.20_20:44]
うん、満足というのは人によって違うと思うのでうまく説明できませんが、ぼくはバーゼルでの授業を終えて、はっきりと次の時代に移行しているのだなと思いました。しかし、基本的に渡辺さんとは意見が違うのだと思います。つまり「天才たちが食い残したもの」は現実にたくさんあって、新しいテクノロジーを駆使したり、場合によっては古い技術をよみがえらせたりして、ぼくたちはこれをきちんとぼくたち自身の仕事として、しっかり受け止めなくてはいけないのだと思います。


369 koizumi [2003.3.20_15:01]
STOP
THE
WAR!
戦争は次世代のために絶対にしてはいけない。どんなかたちでも手を貸した者は地球を一歩死に追いやった重罪人であると思う。天罰が下る。戦争よ、早く終われ!(犠牲をできるだけ少なく)しかし、この後がこわい。ほんとうに無差別殺人の始まりです。

371 koizumi [2003.3.28_23:33]
仙台市戦災復興記念館にて、小学生のことば。
みんなしんで
かわいそう
人がしんだら
くろかった
せんそうは きらい

374 koizumi [2003.4.7_0:05]
今、BS2ですばらしい番組やっていました。『花どこ』の特集。反戦フォークのPete Seegerは、やっぱり、やっぱり、やっぱり、すばらしい人だ!彼は人類の宝だと思う。